~あの日から~語り継ぐ ④

【第4回 じいちゃんを殺す気か】

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あの日から④

 3月11日の夜は、いつでも外に飛び出せるように服を着て、ラジオを聞きながらこたつで寝ました。阪神大震災のとき、保健師として応援で行った経験があるので、しばらくはパジャマは着なかったですよ。

 12日朝、原発から10キロ圏内に避難命令が出た、というのをラジオで聞きました。ご飯の準備をしながら「お父さん、大変だよ。とうとう、避難命令が出たよ」と言ったんです。

 以前、原発立地町を管轄する保健所にいたので、一週間ぐらい研修を受けているんです。だから、避難命令がでるのは、原発の中で何か起きている、ということだと思いました。「原発で爆発が起きた」こともラジオで聞きました。

 でも、飯舘村が心配だとは少しも思いませんでした。気になったのはガソリンだけです。前日断られたスタンドでガソリンを10リットル入れました。

 13日、私の車に夫も乗って鏡石町に戻りました。いつもより、ちょっと車が多いかな、と思ったけど、村の中に避難所ができ、みんなが炊き出しをやっているなんて、思ってもみなかった。

 校長住宅についたのは午後9時です。テレビをつけて、初めて相馬市の津波を見ました。福島県に津波がくるなんて思ってもいませんでした。

 私は全国健康保険協会(協会けんぽ)で非常勤の保健師の仕事をしていました。14日は、ある会社の健康相談に行く予定だったんです。リーダーから「明日は自宅待機で」とメール来ました。それで、14日、2時間待ってガソリンを20リットル入れました。飯舘村までギリギリ往復できるぐらいです。15日には友人の紹介で給油でき、満タンになり、ほっとしました。

 15日から飯舘村の放射線量が上がってきました。息子から「じいちゃん、ばあちゃん殺す気か」とメールが来ました。

 (東京新聞 2014年5月5日掲載)