~あの日から~語り継ぐ ⑭

「第14回 松川町で生活へ」

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あの日から14

 勘はわるくないなぁ、と思っています。

 2010年12月8日、在宅保健師の研修で山形に行ったんです。新幹線の中で、福島市松川町に住んでいる先輩が「うちの夫がね、じいちゃんが使っていた畑を荒らしていて、近所に悪いのよね。誰か借りてくれないかしら」と言うんです。夫に話したら「借りる」と。

 そもそものきっかけは、30年前なんです。新婚時代、松川町を通って飯舘村に車で帰ったんです。そのたびに夫が「このあたりの土はいいんだよな。将来、ここで何かつくりたいな」と言うんです。飯舘村にも親から受け継ぐ土地があるのに、土地を借りる気なのかしら、と思っていたんです。

 12月29日に畑を見せてもらったら、夫は「借りる」とううんです。なぜだと思います? そこから見た安達太良連峰が気に入ったんです。弁当を持って、何かやりながらスケッチでもしたらいいな、と思ったと言うんです。

 11年4月11日。突然、飯舘村は1か月以内を目安に避難、となったんです。翌12日に「もっと畑を貸してください」と頼みに行く予定だったんです。

 そして、そのときに「畑の近くに家も探してください」とお願いしました。16日にはもう見つかりました。桑畑の中の平屋の一軒家です。空間線量は福島市でも低いほうでした。飯舘村の家と比べると、部屋は半分以下で、狭いですが、アパートよりはいいと思いました。家賃は月5万円です。

 築40年以上たっていたので、借り上げ住宅の条件には合わなかったんです。うちが借りる契約をしたのが、制度ができるより早かったんです。

 夫が自分が開発したジャガイモの新品種「イータテベイク」やカボチャの「いいたて雪っ娘」の栽培を飯舘村で始めていました。松川町で畑がみつかり、継続できる見通しが立ちました。私にはちゃんと神様がついているんです。

 (東京新聞 2014年5月26日(月)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑮

「第15回 私に一番、遠い仕事」

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あの日から15

 飯舘村の教育委員を頼まれたのは10月末です。

 2011年秋。土曜日の夕方でした。菅野典雄村長と奥さんがうちに来たんです。夫に「教育委員を頼みたい」と。夫は「フルタイムで(高校に)出ているからダメだ」と断りました。公務員は教育委員にはなれないんです。

 「そうか、どうすっかなぁ」と村長が言うと、奥さんが「先生がダメなら、奥さんがいるんじゃない」。

 「えーっ」て感じです。「(役所に)文句は言えるけど、教育委員というのは私に一番、遠い仕事です」と断ったんですよ。そうしたらうちの人が言ったんです。「村長が困ってるんだから、手伝ってやればいいべぇ」。そして「なあ、じいちゃん、俺たちも協力するよな」と。家族が了解したんで、断る理由がなくなったんです。

 仕事は「月に1回の定例会だけだ」と村長は言ったんです。最初の会議で「定例は月1回ですが、臨時はしょっちゅうあります」と言われました。教育委員会の定員は5人で、3人以上出ないとい流会です。ところが委員は以前から3人なんです。欠席すると、成立しないんです。協会けんぽ(全国健康保険協会)の仕事は辞めました。

 他の二人は教育長と教育委員長です。3人しかいないので、私も教育委員長の職務代理者なんです。実際には、委員長は司会進行ですし、教育長は行政側なので、何か言うのは私だけなんです。

 最初の臨時委員会は翌年春、校長・教頭の人事でした。「この校長はいや、という拒否権はあるんですか」と聞いたんです。そうしたら「それはダメです」と笑われました。「じゃ、何のための臨時委員会ですか」と言ったんですが、こういう嫌味を言う委員はいないでしょうね。

 半分、ボランティアですよ。報酬は定額で月2万円ちょっとです。半年まとめて支払われます。交通費もありません。

 (東京新聞 2014年5月27日(火)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑬

「第13回  幕川温泉に避難」

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あの日から13

 避難先がなかな、決まらなかったんです。飯舘村はホテルや旅館、あるいは借り上げ住宅に入るようにしていたんです。

 やっと、役場で「奥土湯温泉ならあります」と言われたんです。「宿が2軒あって、そこなら今から行けます」と。私の頭の中にあったのは福島市の土湯温泉の中を流れている川の奥にあるのかな、と思ったんです。

 2011年6月4日、避難所に指定された幕川温泉に向かいました。山の中で、秘湯の一つです。初めて行きましたが、本当に温泉があるのかな、と思うほど狭い道を走り続けた先でした。

 そのとき、じいちゃんたち二人があの世に行くときは、近所の人は誰もいないんだと思ったんです。見送ってくれる近所の人がいないと。絶対、この二人を帰村させなきゃいけないと思ったんです。

 飯舘村は菅野典雄村長が帰村まで「2年」と言っていました。私は3年かかると思ったけど、もう、3年たっちゃいましたよね。

 人間、目標がはっきりすれば我慢できるでしょ。その後、延長するのはまだ、我慢できる。でも、最初から10年と言われるとねぇ。村長が2年と言ったことを、うそつきという気はないですよ。村にはそういう人もいますけどね。長いと目標にならないんですよ。今回のことで、村長は悪い判断はしていないと思う。

 懇談会などで「目標を示してください」というと、国から来た人たちはのらりくらりした答えで、はっきり言わないんです。

 望みをどこに置くか、ということで、飯舘村に帰れないことはないと思った。

 幕川温泉は飯舘村に住んでいた人の避難所なので、じいちゃんとばあちゃんと私の3人が避難したことになっています。夫は鏡石町に単身赴任していたので、温泉に泊まるときは自費でした。夫は精神的賠償ももらっていないんです。

 (東京新聞 2014年5月23日(金)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑫

「第12回 幕川温泉まで」

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あの日から12

 2011年4月22日、村全体が計画的避難区域になりました。約1か月の間に避難するということでした。

 3月30日に国際原子力機関(IAEA)が飯舘村の土壌汚染は避難基準を上回っていると発表したのに、枝野官房長官は「避難の必要ない」と言ったんです。それが3週間以上たって避難しろ、となったのです。

 私はそのころ、週に2回、鏡石町と飯舘村を往復していました。帰るたびに村役場に行ったんです。でも、病気の人とかが先じゃないですか。うちは元気な老人だったので、5月末になっても避難先が決まらないんです。

 同じ行政区の人がいるところに避難させたかったんです。でも、みんながどこに避難するのか、役場がどこに移るのか、が分からなかった。1か月をめどに避難と言われたのに、こんなに遅れていいんだろうか、と思った。結局、福島市の幕川温泉に避難する6月4日まで、じいちゃんたちは飯舘村にいました。

 不便だったのは水です。うちは沢水を引いています。村からペットボトルが配給になっていました。じいちゃんたちに「うちの水は飲むんじゃないよ」と言いました。でも、「間違って飲むこともあるんだぁ」と言ってました。

 家庭菜園が全部、駄目になったんです。飯舘村に帰るときに野菜を買って行きました。有機農業をやっていた知り合いが、ハウス栽培のブロッコリーを作っていて、捨てるのがもったいない、って。じいちゃんが「どうする」と言うので「かわいそうで捨てられない」と言って食べましたね。作っている人の涙をみたらねぇ。

 野菜は十分、水洗いして、ゆでれば大丈夫、という話が出ていましたよね。そんなに量を食べなければ大丈夫、という判断をしていました。でも、うちの山菜はどれ一つ食べなかった。あれは悔しかったな。

 (東京新聞 2014年5月21日(水)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑪

「第11回 ガイガーカウンターが必要」

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あの日から11

 テレビのテロップで、飯舘村の空間放射線量の数字が出てくるんですが、それは我が家の数値ではない。帰るにしたって、安全なのか分からない。だから、わが家の放射線量を知るために線量計がほしかった。3月中から息子二人に探してと、と言ったんです。

 次男は分析機械メーカーに勤めています。ガイガーカウンターがあると思って「会社の送ってもらったんでは、あんたの立場が悪くなる。何とか、手に入れて」と言った。「国産はないが、ウクライナ製なら」という返事が来たんです。品物は2週間で日本に来たが、税関がなかなか通らなかった。みんなが線量計持つと、都合悪い人がいるんじゃないですか。そう感じました。私の手元に来たのは5月1日でした。

 長男が4月20日ごろ、線量計を持ってきたので、飯舘村に線量を測りに行きました。うちの山菜畑で9(毎時9マイクロシーベルト)を超え、一番高かった所は10を超えていた。

 自宅は飯舘村の数値として公表されている3.8と、それほど違わなかった。だから、わが家の線量もテロップと同じぐらいと分かった。体温だって、熱っぽいではダメで、何度あるかが大事だ。そういう考え方をするのは、昔受けた教育が役立っているんです。

 「クニさんって、理系ですか」と聞かれることがあるんです。私は「人のうわさ話は信用しない。自分で確認したもの、データを信用します」と話す。家族を守るためには、そうしなければいけなかった。

 わが家で採れた山菜も調べています。ウルイが2012年にはND(検出限界以下)だったんです。料理して出したら「いやぁー、たべられるんだなぁ。飯舘に帰ったみたいだ」とじいちゃんは言ったんです。

 検査をする習慣づけは大事だと思う。役場は「山菜を採るな、食うな」と言っているだけ。村が調べて、基準値以下だったら「食べたい人は食べる」としたらいい。

 (東京新聞 2014年5月20日(火)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑩

「第10回 若妻の翼」

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あの日から⑩

 「若妻の翼」は公民館事業という位置付けで、菅野典雄館長(現村長)が担当で、団長でした。若妻の参加者は19人でした。1989(平成元)年9月26日に村を出発し、ドイツ、フランスを回って10月7日に帰りました。

 村に住むようになっても、仕事は南相馬市だったので、村の中に友達がいなかった。それがいっぺんに18人もできました。

 先日も当時の仲間と会いました。そのとき、話したんです。「ちょうど、チェリノブイリが爆発した後だったんだよね」「あのときは何も考えなかったね」と。私は「すでにドイツは風力発電をやっていた。新規の原発建設をやめました、という話を通訳の人がした」と言ったんです。

 原発問題は印象に残っています。もう一つは、買い物袋がドイツには全然なかった。ごみ問題です。女性の駆け込み寺「婦人の家」も訪ねました。「こんなこと考えなくてすむだけ、私たちは幸せだね」と言った記憶があります。

 一緒に行ってくれた日本青年館結婚相談所長の板本洋子さんが、スケジュールを考えてくれました。

 当時の村長は「無事、帰ってくれば、それでいい」と言ったんです。ところが、帰国すると菅野館長が「何か残した方がいい」と言ったんです。飯舘村から福島市に移って喫茶店「椏久里」のママをしている市沢美由紀さんが「私やる。だからクニさんやろう」と。

 本は「天翔けた 19妻の田舎もん」というタイトルで出版されました。七刷りまでいきました。本が売れたので、ベルリンの壁に桜の木を植えようというプロジェクトに加わって、苗木を20本送りました。

 板本さんが本の最後に書いています。

 「男に行かせたら報告書一枚で終わり。しかし、女に行かせたらこんなに効果があった。波及効果もある。安くつきました」

 (東京新聞 2014年5月19日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑨

【第9回 飯舘村に住む】

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あの日から⑨

 夫は希望通り相馬農業高校飯舘校に異動になりましたが、最初は南相馬市に住みました。最終的には飯舘村に住むつもりだったので、子どもたちは飯舘村の幼稚園に行かせました。夫が原町から子どもを連れて幼稚園に行き、じいちゃん、ばあちゃんがスクールバスで送られてくるのを迎えに行きました。

 下の子が幼稚園に入る時、飯舘村の家を直して、おじいちゃんたちと同居しました。1987(昭和62)年9月のことです。

 農業といっても、農業だけでやっていけるほどの土地はないんです。飯舘村でも広い土地を持っている家はあまりないんじゃないですか。だから、普段は勤めて、週末農業という兼業農家が多い。

 おじいちゃんは若いころ、田子倉ダム(福島県只見町)を造ったり、東京五輪のころは地下鉄工事をやったり、と出稼ぎに行ってますね。

 獣のわなを作ってイタチを捕ったこともあります。ばあちゃんにいやがられてやめたんです。皮を売ったみたいですよ。

 50代ぐらいから山菜を育てたんです。私が何が悲しかったかというと、苦労して、工夫してやってきたおじいちゃんの宝がみんな駄目になったんじゃないか、と。それが気掛かりでしたね。

 89(平成元)年、村の広報紙に「第一回若妻の翼」団員募集のチラシが入っていました。10日間の欧州旅行です。新婚旅行に行っていなかった私は、海外旅行に行けると思ったんです。若妻ですから、年齢制限もあるし、このチャンスを逃したら、行けなくなるかもしれない。保健師の仕事は、年間スケジュールが決まっているんです。団員募集を見たら9月下旬で、都合が良かったんです。

 募集は20人。区長に頼まれたという団員が多かったんですが、私は自分で役所に書類を持って行ったんです。

(東京新聞 2014年5月14日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑧

【第8回 結婚】

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あの日から⑧

 郡山市の高校を卒業後、宇都宮市にある国立栃木病院(現国立病院機構栃木医療センター)付属高等看護学院に入りました。母から「手に仕事を」と言われたこともあって、保健師になろうと思っていたんですが、実習に行って「こりゃ、つまらないなあ」と。それで国立病院の看護師を4年間しました。そのとき、宇都宮大学の大学院で学んでいた夫と出会ったんです。

 夫は飯舘村出身で「一人息子だから、帰らなきゃいけない」と言うんです。そのときは、なんで帰らなきゃいけないんだろうと、不思議でした。跡を継ぐとか、帰るとか。私にはそういう感覚がないんです。

 結婚後も仕事を続けろと、夫は言うんです。調べてみたら、飯舘村の近くでは大きな病院はなく、看護師として勤めるのは難しいのかな、と。それならもう一度、保健師を目指そうと思ったんです。不純な動機ですよね。

 1978(昭和53)年、私は福島県の保健師に、彼は県立高校の農業の教師に採用されました。二人そろって新採です。

 結婚式はその年の3月18日に挙げたんですが、夫の赴任場所が決まったのは、例年より遅くて、式の当日でした。「夫の勤務先の近くにするから心配するな」と言われていたんですが、私の勤務先が決まったのは20日ごろなんです。

 赴任地は、夫が岩瀬農業高校で、私が須賀川保健所(現県中保健福祉事務所)です。岩瀬農高は、須賀川保健所の管内にある高校なので、近いんです。赴任先が決まっていなかったので、新婚旅行は行けませんでした。

 福島県では初任地は出身地でないところ、という鉄則があるんです。3年後、飯舘村にある相馬農業高校飯舘校に異動になりました。私は一年遅れで、南相馬市にある原町保健所(現相双保健福祉事務所)に転勤しました。飯舘村は原町保健所管内です。

 (東京新聞 2014年5月13日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑦

【第7回 名前にふさわしい自分に】

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あの日から⑦

 生まれは旧田村郡田村町、今は郡山市田村町です。JR水郡線が通っている町です。ここには守山城があって、小学校はお城の跡でした。

 三姉妹の三番目。女に生まれたのが嫌で嫌で
…。嫁(母)としゅうとめ(祖母)の問題をずっと見ていた。女の切なさというのか。母からはおまえが男だったら良かったのに、と何度も言われました。

 子どものころは、名前のクニがいやだった。漢字の名前でないので、親を恨んでいた。姉二人は漢字の名前で、最後に「子」が付いている。

 私が生まれたのは昭和20年代ですから、名前がカタカナで、子が付かない子は学年でもほかに一人しかいなかった気がするなあ。それくらい珍しかった。カタカナで子が付かない名前は、なんか古くさい感じ。それがいやだったんです。

 あるとき、母に聞いたら、父が勝手に付けたらしいんです。父はクニ子と付けたと言ったと言うんですけど、クニ子じゃなくて、クニだったんです。

 母は「まあ、国一番になるからいいべぇ」と言ったんだそうです。母から聞いた「国一番」が頭の中に残っていて、それにふさわしい生き方をしようかな、と。いつか、そんな自分がいましたよね。

 名前って、親が一生懸命考えて付けるじゃないですか。今は自己紹介で、クニという名前が似合う年になりました、と言うんです。

 保健師になってこだわったのが、性教育でした。子どもたちに、生きるということ、生まれるということを、どう分かってもらえるかって考えたんです。性別って、選べないじゃないですか。性教育では、私自身が女に生まれたのは損だとずっと思ってきた、ということから話を始めます。

 (東京新聞 2014年5月12日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑥

【第6回 避難所で健康相談】

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あの日から⑥

3月20日に鏡石町役場に行きました。町内に避難所を2か所、設置していました。地震の被災者向けです。原発事故の避難者は(田村市)都路から一人かな。町の保健師に「ボランティアで手伝うよ」と言ったんです。押しかけ応援で、21日から避難所で健康相談をやりました。

保健所の職員はみんな、布団を持ち込んで仕事をしていると言っていました。ガソリンが足りないじゃないですか。しかも、原発の避難者が次々にやって来るんです。その人たちの放射線検査をしていました。

全国健康保険協会(協会けんぽ)から「県から応援を頼むと言ってきたので、28日から仕事として避難所に行ってください」と連絡がありました。避難所で、双葉郡から避難してきた人たちの姿を見ました。お年寄りが本当に何もすることがなくて、という状況を。

3月30日、国際原子力機関(IAEA)が飯舘村の土壌汚染は避難基準を上回っていると発表したんです。枝野官房長官は31日、避難の必要はない、と言ったんです。本当に安全なのか、安心できるのかは分からなった。

おばあちゃんからは「死んでもいいから、飯舘に帰る」と言われた。おばあちゃんはテレビも見ないで、家の中でじっとしている。おじいちゃんは校長住宅の庭を畑にして、イモや豆を作った。それから「することがねぇなぁ」と。

両親をどうするかを考えるとき、避難所の人たちのことが頭にあった。二人の様子を見ていたら、飯舘でもさすけねえな(問題はない)と思った。

4月2日、車で飯舘村に戻りました。11日になって国は、「飯舘村は1か月以内を目安に全員避難」と言いました。

どうして避難区域を拡大したのか。根拠を知りたいのですが、今もわかりません

(東京新聞 2014年5月9日掲載)